鬱になることのメカニズムってなんだろう
ネットサーフィンしていると偶然見つけたこのエントリ。卒業研究においてではないけれど自分も鬱(自分ではそう思っていないし診断ももらっていないが)のような状況に陥った経験があるので、少し話したいと思う。
僕はまじめだったと思う。言われたことはきっちり行い、実験にも下手くそなりに全力投球でできるだけ成長しようと努力する人のように感じていた。
完璧を求めすぎていたのだと思う。ある日諸事情で研究室を欠席した際に「きっかけ」が訪れた。
1・「周りの同期に比べて手際も悪く僕は駄目だ」
2・「こんな駄目な僕が欠席するなんて失望されている非難されても仕方ない」
3・「努力しても今のレベルじゃまったく追いつけない」
4・「こんな低レベルな僕が教授の時間を奪ってまで、くだらない質問をできるはずがない」
5・「もう無理だ何もできない」
6・「ここで諦める人間の僕はクズだ。やっぱり駄目なんだな」
という具合に悪循環に陥り研究室に行くのをやめた。今では親や教授、メンバーの助けもあり無事回復したけれど。
自己成長意欲が高いために、現在の自己評価が圧倒的に低いことが原因だったと思う。
自己評価の低さは成長のばねに繋がるけれど、諸刃の剣なのだ。
今、自己成長の大切さをうたうの自己啓発本が蔓延し、成長することが大切だと叫ばれている。鬱を経験した僕も、今その大切さを否定しないし、正しいと思う気持ちに変化はない。
でも一方で、「今のお前らはカスだ」「人に誇れぬ生き方をしているカスが人様と同じように生きるのはおかしい」と気づかぬうちにボディーブローを受け続けている。購買意欲を促すのに効果的な方法は「不安を煽る」ことである。相手はプロだ。悪意をもって行ってはいないに違いないが、気づかぬうちに潜在意識に不安を埋め込む方法は熟知している。
その攻撃を受け続けると、いつか爆発してしまう。私はそれが比較的早かったのだろう。
なぜ私は早いのか、それはおそらく客観的な軸に頼り切っていたからだと思う。
私の性格は素直、悪く言えば「自分の意見をもっていなかった」。人の意見を素直に受け入れ行動するため、自己評価を下げる言葉も素直に受け入れてしまったのだろう。
では、防止策はあるのか。と言われるとわからない。
結局のところ「自信を持つ」ことしかないのだろう。自分の成功体験を積み「他人が何と言おうとやってやる」と少しでも思えることが、自分の意志を強くする方法なのかもしれない。
僕も30日チャレンジに挑戦してるし。(とはいってもできないときもあるからそれで自分の意志の弱さを悲しんだりするのだけど笑)